梶原景時|平家物語巻第九『二度魁』現代語訳あらすじ

平曲|二度魁(にどのかけ)
時間|11分42秒
物語|平家物語巻第九「二度魁(にどのかけ)」
インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
梶原郎等共に「源太はいかに」と問ひければ「あまりに深入りして討たれさせ給ひて候ふやらん遥かに見えさせ給ひ候はず」と申しければ梶原涙をはらはらと流いて「軍の先を駆けうと思ふも子供がため、源太討たせて景時命生きても何にかはせんなれば返せや」とてまた取つて返す。その後梶原鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて「昔八幡殿の後三年の御戦に出羽国千福金沢城を攻めさせ給ひし時、生年十六歳と名乗つて真先駆けて弓手の眼を鉢付の板に射付けられながらその矢を抜かで当の矢を射てやがてその敵が首とつて名を後代に上げたりし、鎌倉の権五郎景正が末葉に梶原平三景時とて一人当千の兵ぞや。城の内に我と思はん人々は寄り合へや見参せん」とて喚いて駆く。城の内には是を聞いて「只今名乗るは東国に聞えたる兵ぞや余すな洩らすな討てや」とて梶原を中に取り籠めて我討らんとぞ進みける。梶原我が身の上をば知らずして源太はいずくに在るやらんと、駆け破り駆け廻り尋ぬるほどに、案の如く源太は馬をも射させ徒歩立ちになり、甲をも打ち落され大童に成つて、二丈ばかりありける岸を後に当て、郎等二人左右に立て敵五人が中に取り籠められて面も振らず命も惜しまず此処を最後と攻め戦ふ。梶原これを見て源太は未だ討たれざりけりと嬉しう思ひ急ぎ馬より飛んで下り「いかに源太景時ここにあり同じう死ぬるとも 敵に後ろな見せそ 」とて親子して五人の敵を三人討つ取り二人に手負せて「弓矢取は駆くるも引くも折にこそよれ、いざうれ源太」とて掻い具してぞ出でたりける。梶原が二度の駆けとはこれなり。

平家物語巻第九『二度魁』現代語訳あらすじ
※平曲の譜面『二度魁』から書き起こした文章を現代語訳にしています
さて、成田五郎が現れ、土肥次郎実平も七千余騎を率いて、さまざまな旗を掲げながら叫び声を上げて攻めかかった。源氏の大軍五万余騎が生田森の正面を固めていた。その中に、武蔵国の住人である河原太郎と河原次郎という兄弟がいた。河原太郎は弟の次郎を呼び寄せ、「大名は自ら戦うことはしないが、家臣の武功で名誉を得る。我々は自ら戦わなければ本望を遂げられない。敵を前にして矢を射たずに待っているのは不安だ。俺は城内に紛れ込み、一矢報いようと思う。お前は残って後の証人となれ」と言った。次郎は涙を流しながら、「なんて悔しいことを。兄弟が二人いて、兄が討たれ、弟が残るのは悔しい。別々に討たれるより、一緒に討ち死にしよう」と答えた。そして、従者たちを呼び寄せ妻子のもとへ最後の様子を伝え、馬には乗らず、草履を履いて弓を杖にして生田森の逆茂木を越えて城内へ入っていった。
星明かりに鎧の装飾も定かでない中、河原太郎は大音声で「武蔵国の住人、河原太郎私市の高直、同じく次郎盛直、生田森の先陣だ」と名乗りを上げた。これを聞いた城内の者たちは、東国の武士ほど恐ろしい者はいないと感じ、兄弟二人だけでこの大勢の中に駆け込んで何をするつもりだろうかと、ただあしらってやれと彼らを討とうとする者はいなかった。
河原兄弟は弓の名手であったので、次々に矢を放ち続けた。城内の者たちもその奮戦を見て、あしらうのは無理だ、この者たちを討てと声を上げるところに、西国で名高い弓の名手、備中国の住人真名辺四郎と五郎の兄弟が現れた。兄の四郎は一谷に、弟の五郎は生田森にいたが、河原兄弟の奮戦を見て、じっくりと狙いを定めて矢を放った。その矢は河原太郎の鎧の胸板を射抜き、太郎は弓杖にすがって倒れかける。弟の次郎は兄を助けようと駆け寄り、肩に担いで生田森の逆茂木を越えようとしたが、真名辺五郎が放った二の矢が次郎の鎧の草摺を射抜き、兄弟二人はその場で倒れた。真名辺の従者たちが河原兄弟の首を取り、大将軍である新中納言知盛卿のもとに持っていくと、「見事な兵たちだ。これこそが一人当千人の兵と言うべきだ。彼らの命を助けてやりたかった」と言った。
その後、河原の従者が駆け「河原殿兄弟は城内に真っ先に駆け込み、討たれました」と叫び声を上げた。それを聞いた梶原平三景時は、「これは私の党の不覚で河原兄弟を討たせてしまった。しかし好機だ、攻めよう」と鬨の声を上げた。それに応じて、五万余騎の兵たちも一斉に鬨の声を上げた。
景時は、まず足軽たちを送り出して生田の森の逆茂木を取り除かせ、その後、自ら五百余騎を率いて叫び声を上げながら駆け行った。次男の平次景高は、あまりにも先を急いで進もうとしたため、景時は「後陣が追いつかないまま先駆けする者には、褒美はないとの大将軍の仰せだ」と伝えた。平次景高は一旦控えたが、「武士が弓を引いたならば、それを戻すことなどあろうか」と伝え、再び駆けて行った。
これを見た景時は「平次を討たせるな、景高を討たせるな、続け」と、父の景時、兄の源太、そして三郎も共に続いた。梶原の軍勢が五百余騎で大勢の敵陣に突っ込み、縦横無尽に駆け回って敵を打ち破り、引き返してくると、源太の姿が見えなかった。
景時が郎等たちに「源太はどうした」と尋ねると、「深入りしすぎて討たれたのか、姿が見えません」と答えた。これを聞いた梶原は涙を流し、「軍の先を駆けるのも、全ては子のためだ。源太が討たれたならば、景時が生きて何の意味があろうか。返せ」と言い、再び戦場へ取って返した。
その後、梶原は鐙を踏ん張って立ち上がり、大音声を上げて「昔、八幡殿が後三年の戦で出羽国千福金沢城を攻めたとき、生年十六歳と名乗って真っ先に駆け、敵の弓手の矢が鉢付の板に射付けられながらも、その矢を抜かずに敵を射返し、その敵の首を取って名を後世に残した、鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時一人当千の兵だ。城の内に我と思う者はかかってこい、相手をしてやる」と叫びながら駆け進んだ。
これを聞いた城内の者たちは「今名乗ったのは東国に名高い兵だ。逃すな、討ち取れ」と進み寄り梶原を囲んだ。梶原は自分の身を顧みず、息子の源太がどこにいるのか探し回りながら戦っていると、案の定、源太は馬を射られて徒歩立ちとなり、必死に戦っていた。高い岸を背にし、左右に従者を立たせ、敵五人に囲まれながらも、脇目もふらず命を惜しまず、最後の戦いを繰り広げていた。
梶原はこれを見て、源太がまだ討たれていないことに喜び、急いで馬から飛び降りた。そして、「源太、景時はここに居るぞ。たとえ共に死んでも、敵に背を見せるな」と声をかけ、親子で力を合わせて五人の敵を三人討ち取り、残る二人に重傷を負わせた。そして、「弓矢を取る者は、攻めるも退くも時機による。さあ源太、行こう」とその場を脱した。梶原が二度駆けとはこのことである。
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