平曲を聞く

平家琵琶の伴奏で語る平家物語(平曲)の一部演奏動画を掲載しています。再生時は音量にご注意ください。音源は収録時の環境音を一部、そのままにしています。
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平曲|入道逝去(にゅうどうせいきょ)
時間|6分01秒
物語|平家物語巻第六『入道逝去』
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詞章
閏二月二日の日、二位殿熱さ堪へ難けれども日に沿て頼み少ふ見え給へば、御枕により泣く泣く宣ひけるは、「それ何事にてもあれ、思召れんずる御事あらば、物の少し覚えさせまします時、仰せられ置け」とぞ宣ひける、入道相国日来はさしも勇々しうおはせしかども、今はの時にも成りぬれば世に苦しげにて息の下にて宣ひけるは、「当家は保元平治より以来、度々の朝敵を平らげ勧賞身に余り、忝くも一天の君の御外戚と成つて丞相の位に至り栄華既に子孫に遺す、思ひ置事とては今生に一つもなし、但し思ひ置事とては入道が一期の中に頼朝が頭を見ざりける事こそ口惜けれ、我いかにもなりなん後仏事孝養をもすべからず、又堂塔をも建つべからず、先鎌倉へ討手を遣はして頼朝が首を斬つて、我墓の前にかけさせよ、それぞ思ふ事よ」と宣ひけるこそ恐しけれ、もしや助かると板に水置てふしまろび給へども、少しも助か給ふ心地もし給はず、同じき四日の日、悶絶躃地して、終ににあつち死にぞし給ひける。
平曲|経之嶋(きょうのしま)
時間|5分15秒
物語|平家物語巻第六『経之嶋』
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詞章
およそは最期の所労の有様どもこそうたてけれども、誠にはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり、日吉の社へ参り給ひしには、当家他家の公卿多く供奉して、摂禄の臣の春日の御参詣宇治入りなんど申すとも、是にはいかでかまさるべきとぞ人申しける、それに何事よりもまた摂津の国和田の御崎に経の島築いて、上下往来の船の今の世に至るまで煩ひなきこそめでたけれ、彼島は去んぬる応保元年二月下旬に築始められたりけるが、同じき八月二日の日俄かに大風吹き大浪立つて皆ゆり失ひてき、同じき三年三月に、阿波民部の太夫成能を奉行にて築かせられたりけるが、人柱立てらるべしなんど公卿詮議ありしかどもそれはなかなか罪業たるべしとて、石の面に一切経を書いて築せられたりける故にこそ経の島とは名付けけれ。
平曲|慈心坊(じしんぼう)
時間|5分39秒
物語|平家物語巻第六『慈心坊』
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詞章
敬禮慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最勝将軍身 悪業衆生同利益
この偈を誦じ終つて尊恵に又付属す、尊恵斜めならずに歓び南方の中門に出づる時十餘人の餘僧等又先のごとく車の前後に従ひつつ、東南に向つて空を翔り程なく帰り来るかと覚えて夢覚めぬ、その後尊恵都へ上り入道相国の西八条の邸に行向つてこの由具に語り申されたりければ、入道相国斜めならずに喜びやうやうにもてなされ、さまざまの引き出物賜うでその時の勧賞には律師になされけるとぞ聞こえし、それよりしてこそ清盛公を慈恵僧正の化身とは人皆知りてげれ。
平曲|祇園女御(ぎおんにょうご)
時間|5分06秒
物語|平家物語巻第六『祇園女御』
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詞章
弓矢取りはやさしかりけるものをとて、さしも御秘蔵と聞こゆる祇園女御を忠盛にこそ下されけれ。この女御はらみたまへり、女御の産めらん子女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にして、弓矢取りにしたてよと仰せけるにすなはち男を産めり、事にふれては披露せざりけれども内々はもてなしけり。
生食(いけづき)
時間|10分52秒
物語|平家物語巻第九「生食(いけづき)」
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インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
思ひ思ひの鞍置かせ色々の鞦懸け、或いは乗口に引かせ或いは諸口に引かせ、幾千万といふ数を知らず。引き通し引き通ししける中に景季が賜はつたる磨墨に勝る馬こそ無かりけれと嬉しう思ひて見るところに、ここに生食と思しき馬こそ出で来たれ。金覆輪の鞍置かせ小房の鞦懸け白轡はげ白沫噛ませて、舎人数多付いたりけれどもなほ引きもためず、躍らせてこそ出で来たれ。梶原うち寄つて「この御馬は誰が御馬候」「佐々木殿の御馬候」「佐々木は三郎殿か四郎殿か」「四郎殿の御馬候」とて引き通す。梶原「安からぬ事なり。同じやうに召し使はるる景季を、佐々木に思し召し替へられける事こそ遺恨の次第なれ。今度都へ上り木曽殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井と組んで死ぬるか然らずは西国へ向つて平家の侍と軍して死なんとこそ思ひしに、この御気色ではそれも詮なし。詮ずるところ唯今此処にて佐々木を待ち受け、引つ組んで差し違へよき侍二人死んで鎌倉殿に損取らせ奉らん」と呟いてこそ待ちかけたる。佐々木何心もなう乗替えに乗って歩ませて出で来たり。梶原押し並べてや組むべき向こう様にや当て落すべきと思ひけるが、まづ詞をぞ懸けける。「いかに佐々木殿は生食賜はらせ給ひて上らせ給ふな」と云ひければ佐々木、あつぱれこの仁も内々所望申しつると聞きしものをときつと思ひ、「さん候ふ今度この御大事に罷り上り候ふが、宇治も勢田も定めて橋をや引いたるらん。乗つて川を渡すべき馬は無し。生食を申さばやと存じつれども、御辺の申させ給ふだに御許されも無きに、まして高綱なんどが申さばとてよも給はらじ。後日にいかなる御勘当もあらばあれと存じつつ、明日立たんとての曉、舎人に心を合はせてさしも御秘蔵の生食を盗み澄まして上りさうはいかに梶原殿」と云ひければ、梶原この詞に腹が居て「妬いさらば景季も盗むべかりつるものを」とてどつと笑ふてぞ退きにける。
宇治川(うじがわ)
時間|8分50秒
物語|平家物語巻第九「宇治川(うじがわ)」
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インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
ここに平等院の艮橘の小島崎より武者二騎引き懸け引き懸け出で来たり、一騎は梶原源太景季一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども内々先に心をかけければ梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。佐々木「いかに梶原殿この川は西国一の大河ぞや、腹帯の延びて見えさうは締め給へ」と云ひければ、梶原さもあるらんとや思ひけん手綱を馬の揺髪に捨て、左右の鎧を踏み透かし腹帯を解いてぞ締めたりける。佐々木その間に其処をつと馳せ抜いて川へさぶとぞうち入れたる。梶原謀られぬとや思ひけんやがて続いてうち入れたり。梶原「いかに佐々木殿高名せうとて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん心得給へ」と云ひければ佐々木げにもとや思ひけん、太刀を抜いて馬の脚にかかりける大綱共をふつふつと打ち切り打ち切り、宇治川速しといへども生食といふ世一の馬には乗つたりけり一文字にさつと渡いて向かひの岸にぞ着きにける。梶原が乗つたりける磨墨は川中より篦撓形に押し流され遥かの下より打ち上げたり。
二度魁(にどのかけ)
時間|11分42秒
物語|平家物語巻第九「二度魁(にどのかけ)」
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インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
梶原郎等共に「源太はいかに」と問ひければ「あまりに深入りして討たれさせ給ひて候ふやらん遥かに見えさせ給ひ候はず」と申しければ梶原涙をはらはらと流いて「軍の先を駆けうと思ふも子供がため、源太討たせて景時命生きても何にかはせんなれば返せや」とてまた取つて返す。その後梶原鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて「昔八幡殿の後三年の御戦に出羽国千福金沢城を攻めさせ給ひし時、生年十六歳と名乗つて真先駆けて弓手の眼を鉢付の板に射付けられながらその矢を抜かで当の矢を射てやがてその敵が首とつて名を後代に上げたりし、鎌倉の権五郎景正が末葉に梶原平三景時とて一人当千の兵ぞや。城の内に我と思はん人々は寄り合へや見参せん」とて喚いて駆く。城の内には是を聞いて「只今名乗るは東国に聞えたる兵ぞや余すな洩らすな討てや」とて梶原を中に取り籠めて我討らんとぞ進みける。梶原我が身の上をば知らずして源太はいずくに在るやらんと、駆け破り駆け廻り尋ぬるほどに、案の如く源太は馬をも射させ徒歩立ちになり、甲をも打ち落され大童に成つて、二丈ばかりありける岸を後に当て、郎等二人左右に立て敵五人が中に取り籠められて面も振らず命も惜しまず此処を最後と攻め戦ふ。梶原これを見て源太は未だ討たれざりけりと嬉しう思ひ急ぎ馬より飛んで下り「いかに源太景時ここにあり同じう死ぬるとも 敵に後ろな見せそ 」とて親子して五人の敵を三人討つ取り二人に手負せて「弓矢取は駆くるも引くも折にこそよれ、いざうれ源太」とて掻い具してぞ出でたりける。梶原が二度の駆けとはこれなり。
那須与市(なすのよいち)
時間|6分33秒
この動画では那須与市の最後から弓流し冒頭を語っています。
物語|平家物語巻第十一「那須与市(なすのよいち)」
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インスタレーション|GIONSHOJA25
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詞章
与市鏑を取つてつがひよつ引いてひやうと放つ小兵といふ条十二束三伏、弓は強し鏑は浦響くほどに長鳴りして過たず扇の要際一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを沖には平家舷を叩いて感じたり陸には源氏箙を叩いてどよめきけり。(ここから弓流)感に堪へずと思しくて、舟の中より年の齢五十ばかりなる男の黒糸威の鎧着たるが白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひしめたり。伊勢三郎義盛与一が後ろに歩ませ寄せて「御諚であるぞこれをもまた仕れ」と云ひければ、与一今度は中差を取つてつがひ、舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す。
弓流(ゆみながし)
時間|2分34秒
前の物語-那須与市の最後から弓流し冒頭を語っています。
物語|平家物語巻第十一「弓流(ゆみながし)」
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インスタレーション|GIONSHOJA25
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詞章
感に堪へずと思しくて、舟の中より年の齢五十ばかりなる男の黒糸威の鎧着たるが白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひしめたり。伊勢三郎義盛与一が後ろに歩ませ寄せて「御諚であるぞこれをもまた仕れ」と云ひければ、与一今度は中差を取つてつがひ、舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す。
嗣信最期
時間|7分59秒
物語|平家物語巻第十一「嗣信最期(つぎのぶさいご)」
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インスタレーション|GIONSHOJA25
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詞章
判官も嗣信を陣の後ろへ舁き入れさせ急ぎ馬より飛んで下り手を取つて「いかが覚ゆる三郎兵衛」息の下にて「今はかうと覚え候」「思ひ置く事はなきか」と宣へば「別に何事をか思ひ置き候ふべき、さは候へども君の御世に渡らせ給はんを見参らせずして死に候ふ事こそ心に懸かり候へ、さ候はでは弓矢取る身は敵の矢に当たつて死ぬる事は兼ねてより期するところでこそ候へ。なかんづく奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と云ひけんもの、源平の合戦のとき讃岐国八島の磯にて主の御命に代はつて討たれたりなんど、末代までの物語に申されん事今生の面目冥土の思ひ出にてこそ候へ」とてただ弱りにぞ弱りにける。判官もあわれに覚えて鎧の袖をぞ濡らされける。ややあつて「もしこの辺に尊き僧やある」とて尋ね出し「手負の只今死に候ふを一日経書ひて弔ひ給へ」とて黒き馬の太う逞しきによい鞍置いて、かの僧に賜びにける。
坂櫓(さかろ)
時間|13分49秒
物語|平家物語巻第十一「坂櫓(さかろ)」
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インスタレーション|SAKARO25
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詞章
判官、舟共の修理して新しうなりたるに各一種一瓶して祝ひ給へとて、とかく営む体にもてなして舟に兵糧米積み物具入れ馬共立てさせ舟疾う疾う仕れと宣へば水主梶取共、これは順風にては候へども普通にては少し過ぎて候ふ、沖はさぞ吹いて候ふらんと申しければ、判官大きに怒つて沖に出で浮かうだる舟の風強ければとて留まるべきか、野山の末にて死に海川に溺れて死ぬるも皆これ前世の宿業なり。向かひ風に渡らんと云はばこそ義経が僻事ならめ。順風なるが少し強ければとてこれほどの御大事に舟仕らじとはいかでか申すぞ、舟疾う疾う仕れ仕らずばしやつ原一々に射殺せ者共と下知したまひける。承り候ふとて、奥州佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶なんどいふ一人当千の兵共片手矢矧げて、御諚であるぞ舟疾う疾う仕れ仕らずばしやつ原一々に射殺さんとて馳せ廻る間、水主梶取共ここにて射殺されんも同じ事風強くは沖にて馳せ死ねや者共とて二百余艘が中よりただ五艘出でてぞ走りける。五艘の舟と申すはまづ判官の舟、田代冠者の舟、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊とて舟奉行の乗つたる舟なり。残りの舟は梶原に恐るるか風に恐づるかして出でざりけり。判官、人の出でねばとて留まるべきか、ただの時は敵も恐れて用心してんず。かやうの大風大波に思ひも寄らぬ所へ寄せてこそ思ふ敵をば討たんずれとぞ宣ひける。残りの舟には篝など燃ひそ、義経が舟を本舟として艫舳の篝を守れや、火数多う見えば敵も恐れて用心してんずとて走るほどに、その間三日に渡る所をただ三時ばかりにぞ走りける。二月十六日の丑の刻に摂津国渡辺福島を出でて、明くる卯の刻には阿波の地へこそ吹き着けたれ。
敦盛最期(あつもりさいご)
【音声のみ】
時間|6:08
『敦盛最期』 場面1
詞章
さる程に、一の谷の軍破れにしかば、武蔵国の住人、熊谷次郎直実は、平家の公達たちの助け舟に乗らんとて、汀の方へや落ち行き給ふらん、あっぱれよい敵にあふて組まばやと思ひ、渚をさして歩まする所に、ここに練貫に鶴縫うたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形打ったる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置ひて乗りたまひたりける武者一騎。海へざっと打ち入れ沖なる舟に目をかけて、五六段ばかりぞ泳がせらる。熊谷、あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候らへ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。返させ給へ、返させ給へ。と扇をあげて招きければ、招かれて取って返し渚に打ちあがらんとし給ふところを、熊谷波打際にておし並べ、むずと組んでどうど落ち、取って押へて首をかかんとて、内甲を押しあふのけて見たりければ、年のよわひ、十六か七かの殿上人の薄化粧して、かねぐろなり。
【音声のみ】
時間|0:55
『敦盛最期』 場面2
詞章
我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔誠に美麗なりければ、いづくに刀を立つべしとも覚えず。熊谷「いかなる人にてわたらせ給ふぞ。名乗らせ給へ。助け参らせん。」と申しければ、「かういふ汝は何者ぞ。名乗れきこう。」ど宣へば、「ものそのものにては候はねども、武蔵国の住人、熊谷次郎直実。」と名乗り申す。
【音声のみ】
時間|6:12
『敦盛最期』 場面3
詞章
「さては、汝にあふては名乗るまじいぞ、名乗らずとも首を取って人に問へ、見知らうずるぞ。」とぞ宣ひける。熊谷あっぱれ大将軍や。この人一人討ち奉つたりとも、負くべき軍に勝つことはよもあらじ。又助け奉つたりとも、勝軍に負くることはよもあらじ。我が子の小次郎が今朝一の谷にて薄手負うたるをだにも、直実は心苦しう覚ゆるに、討たれ給ひぬと聞き給ひて、この殿の父、さこそは歎き悲しみ給はんずらめ。いかにもして助け参らせん。とて、後ろを顧みたりければ、土肥・梶原五十騎ばかりで出で来り。熊谷涙をはらはらと流ひて、
【音声のみ】
時間|3:28
『敦盛最期』 場面4
詞章
「あれご覧候へ。いかにもして助け参らせんとは存じ候へども、味方の軍兵雲霞のごとくに満ち満ちて、よも逃しまいらせ候はじ。あはれ、同じうは直実が手にかけ奉つてこそ、後の御孝養をも仕まひらせ候はめ。」と申しければ、「ただ何さまとうとう、首を取れ。」とぞ宣ひける。
【音声のみ】
『敦盛最期』 場面5
時間|7:54
詞章
熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしとも覚えず。目もくれ心も消へ果てて前後不覚に覚えけれども、さてしも有るべきことならねば、泣く泣く首をぞかひてんげる。あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生まれずば、なにしに、ただいまかかる憂き目をば見るべきとて、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣き居たる。
【音声のみ】
『敦盛最期』 場面6
時間|4:29
詞章
さてしも有るべきことならねば、首を包まんとて鎧直垂を解いて見ければ、錦の袋に入れられたる、笛をぞ腰にさされたる。あないとほし。この暁城の内にて、管絃し給ひつる人は、この人々にておわします。当時味方に東国の勢何万騎かあるらめども、軍の陣へ笛持つ者はよもあらじ。上臈はなほも優しかりけるものをとて、これを取って大将軍の御見参に入れたりければ、その座に並居たまへる人々みな、鎧の袖をぞ濡らされける。
【音声のみ】
『敦盛最期』 場面7
時間|4:29
詞章
後にきけば、修理の大夫経盛の乙子、大夫敦盛とて生年十七にぞなられける。それよりしてこそ、熊谷が発心の心は出で来にけれ。件の笛は、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の院より下し賜はられたりしを、経盛相傳せられたりけるを、敦盛笛の器量たるによって、持たれたりけるとかや。名をば小枝とこそ申しけれ。狂言綺語の理とは云いながら、終に讃仏乗の因となるこそあはれなれ。
