平家物語巻第十『維盛入水』現代語訳あらすじ

平維盛|平家物語巻第十『維盛入水』現代語訳あらすじ|那智の沖にて

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平家物語巻第十『維盛入水』簡単なあらすじ
三つの御山への参詣を無事に終えた平維盛は、浜の宮から一葉の舟に乗って広い海へと漕ぎ出しました。山成島に上陸し、松の木に祖父・平清盛、父・重盛、自分・維盛の名前と入水の日付を刻みました。その後、再び舟に乗って沖へと向かいました。覚悟を決めていたものの、最期の時が近づくと心細さが押し寄せました。三月二十八日、海は霞んで哀愁を誘う風景でした。西に向かって手を合わせ、念仏を唱え、「都では今日が最後だとはどうやって知ることができるだろう。風の便りを待っているに違いない」と思いました。

合掌を乱し念仏を止め、「妻子を持つべきではなかった。後世の菩提の妨げになるのが口惜しい。懺悔する」と語りました。聖は涙を押し拭いながら、「高貴な人も賤しい人も、恩愛の道は断ち切れないものです。生きている者は必ず滅び、会う者は必ず別れるのがこの世の常です」と励ましました。続けて、「源氏の先祖である頼義も、最期に一念の菩提心を起こして往生を遂げました。出家の功徳は莫大であり、前世の罪障はすべて消滅するのです。君もさしたる罪業はないので、浄土に参ることができます。この山の権現は阿弥陀如来であり、一念十念の信仰を持てば必ず迎えに来てくださいます」と言いました。

聖の言葉を受け、維盛は念仏を続け、「南無」と唱える声と共に海へ飛び込みました。与三兵衛と石童丸も続いて念仏を唱えながら海に沈みました。

平家物語巻第十「維盛入水」現代語訳あらすじ全文
こうして三つの御山への参詣を無事に終えた後、浜の宮と呼ばれる王子の御前から、一葉の舟に乗って広い海に浮かびました。遥か沖に山成島という場所があり、中将はその島に舟を漕ぎ寄せて上陸しました。

「祖父 太政大臣 平清盛 法名 浄海」 「父 内大臣 左大将 重盛 法名 浄蓮」 「三位中将 維盛 法名 浄円 年二十七歳 寿永三年三月二十八日 那智の沖にて入水す」こう書き付けて再び舟に乗り、沖へと漕ぎ出しました。覚悟を決めた道ではありましたが、いよいよ最期の時が近づくと、やはり心細く、悲しさは言い尽くせませんでした。

頃は三月二十八日、海は遥かに霞んで哀愁を誘う風景。普通の春の日でも夕暮れの空は物寂しいのに、ましてやこれが今生最後の時であるならば、なおさら心細く感じる。沖の釣り舟が波間に消えるように感じられるが、それでも沈みきらないのを見て、自分の運命を重ねて思ったのだろうか。一行を連れて帰る雁が越路を指して鳴いていくのも、故郷に伝言を託したい気持ちを表しているように感じられ、蘇武が胡国で抱いた恨みを思い出させ、切ない思いに包まれた。

過去のことやこれからのことを思い続けていると、やはり妄執が尽きないと思われたのでしょうか。たちまち妄念を払いのけ、西に向かって手を合わせて高声に念仏を唱えました。心の中では、都では今日が最後だとはどうやって知ることができるだろう。風の便りを今か今かと待っているに違いないと思いました。

合掌を乱し念仏を止めて聖に向かって「ああ、妻子を持つべきではなかった。今生で物思いにふけるだけでなく、後世の菩提の妨げになることが口惜しい。こうした思いを心に残しておくのはあまりに罪深いので、懺悔する」と語りました。

聖も哀れに思いましたが、自分まで心が弱くなってはならないと思ったのか、涙を押し拭いながら冷静に振る舞い、「高貴な人も賤しい人も、恩愛の道は簡単に断ち切れないものでございます。特に夫妻の間柄は、『一夜の枕を並べるのも五百生の宿縁』と申しますから、前世の契りが浅からぬものです。生きている者は必ず滅び、会う者は必ず別れるのがこの世の常です。露が消えるように、人の命もいつか終わりを迎えます。たとえ別れの時が遅かれ早かれ、後れる者も先立つ者も、最終的には別れる運命にあるのです。

かの驪山宮での秋の夕べの契りも、最終的には心を砕く原因となり、甘泉殿での生前の恩も無限ではありません。松子と梅生が一生涯の恨みを抱いたように、十地に達する者ですら、なお生死の定めに従います。たとえ君が長生の楽しみを誇りとされても、この恨みは消え去ることはありません。たとえまた百年の命を持たれたとしても、この別れは避けられないものとお考えください。

第六天魔王という外道は、欲界の六天を我が物として領有し、特にこの世界の衆生が生死を離れることを惜しみ、ある時は妻となり、ある時は夫となってそれを妨げようとします。しかし、三世の諸仏はすべての衆生を我が子のように思い、彼らを極楽浄土の不退の地に導こうとします。そのため、妻子というものは、無始以来生死に輪廻する絆として仏は重く戒めておられるのです。

ですから、心弱く思うことはありません。源氏の先祖である伊予入道頼義は、勅命によって奥州の夷である貞任・宗任を攻めたとき、十二年間で人の首を斬った数は一万六千人、そのほか山野の獣や江河の魚類の命を絶った数は数えきれません。しかし、最期の時に一念の菩提心を起こしたため、往生の願いを遂げました。出家の功徳は莫大であり、前世の罪障はすべて消滅するのです。

例えば、誰かが七宝塔を建て、その高さが三十三天に達するとしても、一日の出家の功徳には及びません。また、百千年の間に百羅漢を供養した功徳も、一日の出家の功徳には及ばないと説かれています。罪深い頼義でさえも、心の猛さゆえに往生を遂げたのです。まして、君はさしたる罪業もありません、どうして浄土に参らないことがありましょうか。

その上、この山の権現は本地阿弥陀如来であり、初めの無三悪趣の願から、終わりの得三法忍の願に至るまで、一つ一つの誓願はすべて衆生を救うためのものです。特に第十八の願には、「説我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚(もし私が仏となったときに、あらゆる方角の衆生が真心から信じ、私の浄土に生まれたいと願い、その願いをもって十回の念仏を唱えたならば、その者が生まれないことがあれば、私は仏とならない。)」と説かれています。このため、一念十念の信仰が重要なのです。

ただ、この教えを深く信じて、決して疑わないことです。心を込めて一遍でも十遍でも唱えれば、阿弥陀如来は六十万億那由多恒河沙の身を縮め、丈六八尺の姿となって、観音や勢至、多くの聖衆や化仏菩薩に囲まれ、伎楽を奏でながら極楽の東門を出て迎えに来てくださいます。ですから、たとえ自分が海の底に沈むと思っても、紫雲の上に昇ることができるのです。

もし成仏して悟りを開けば、この娑婆の故郷に戻って妻子を導くことができるでしょう。還来穢国度人天(現世に還り来て人を救う)とありますから、疑いを持ってはなりません」と聖は盛んに鐘を鳴らし、念仏を勧めました。中将は「然るべき善知識(仏教的な善い導き)」と思い、西に向かって手を合わせ、高声に念仏を百回ほど唱えました。そして、「南無」と唱える声と共に海へ飛び込みました。与三兵衛と石童丸も同じように念仏を唱えながら、続いて海に沈みました。

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