平清盛|平家物語巻第六『経之嶋』現代語訳あらすじ

平家物語「経之嶋」現代語訳あらすじ

平曲|経之嶋(きょうのしま)

時間|5分15秒
物語|平家物語巻第六『経之嶋』
詞章
およそは最期の所労の有様どもこそうたてけれども、誠にはただ人とも覚えぬ事ども多かりけり、日吉の社へ参り給ひしには、当家他家の公卿多く供奉して、摂禄の臣の春日の御参詣宇治入りなんど申すとも、是にはいかでかまさるべきとぞ人申しける、それに何事よりもまた摂津の国和田の御崎に経の島築いて、上下往来の船の今の世に至るまで煩ひなきこそめでたけれ、彼島は去んぬる応保元年二月下旬に築始められたりけるが、同じき八月二日の日俄かに大風吹き大浪立つて皆ゆり失ひてき、同じき三年三月に、阿波民部の太夫成能を奉行にて築かせられたりけるが、人柱立てらるべしなんど公卿詮議ありしかどもそれはなかなか罪業たるべしとて、石の面に一切経を書いて築せられたりける故にこそ経の島とは名付けけれ。

平家物語巻第六『経之嶋』現代語訳あらすじ

平家物語「経之嶋」現代語訳あらすじ

※平曲の譜面『経之嶋』から書き起こした文章を現代語訳にしています

葬送の夜、不思議な出来事があった。 玉を敷き詰め金銀を散りばめて造られていた西八条殿が、その夜にわかに焼け落ちたのである。まことに不可思議なことで、いったい誰の仕業であったのか放火であろうと噂された。またその夜の夜半ごろ六波羅の南の方角で、人でいえば二三十人ほどの声が集まって、「嬉しや、水鳴るは滝の水」という拍子を取り舞い踊どっと笑い合う声が聞こえた。

去る正月には上皇が崩御され天下は諒闇に入ったばかりであった。さらにその一二か月後には、入道相国もまた亡くなった。このような折に心なき怪しの者であっても、どうして嘆かずにいられようか、人々はこれは天狗の仕業であろうと噂し合った。六波羅の若い兵たちがその笑い声を聞きつけて探ってみると、院の御所である法住寺殿は平家の悪行のためにこの一二年は院もお住まいにならず、御所預かりは備前の前司基宗という者であった。その基宗と親しかった者たちが酒を持ち寄って集まり、はじめは「このような時節に騒ぐものではない」と言いながら飲んでいたが、次第に酔いが回りこのように舞い踊っていたのであった。六波羅の兵たちは笑い声を追って百人余りが一斉に押し寄せ、酒に酔っていた二三十人を捕らえて六波羅へ連れて行った。前の右大将宗盛卿は大床に立ち、酔った者たちを大庭に引き据えて事情を尋ねられたが、「これほどまでに酔い潰れている者を、軽々しく斬るべきではない」として皆許された。

人が亡くなった後には朝夕に鐘を打ち鳴らし、定められた時刻に懺法を読むのが常の習いである。ところがこの禅門(清盛)が亡くなってからは、供仏や施僧といった追善の営みはほとんど行われず、朝夕に見えるのはただ戦や合戦の企てばかりでほかに心を向ける様子はなかった。およそ清盛の最期の病のありさまも恐ろしいものであったが、実のところただの人とは思えぬような出来事がほかにも多くあった。かつて日吉の社へ参詣した折には、当家・他家の公卿が数多く供奉し、摂関家の春日参詣や宇治入りと比べても、これに勝るものがあろうかと人々が語ったほどであった。

また何よりも摂津国和田の御崎に経の島を築き、上下を行き交う船が今の世に至るまで滞りなく通れるようにしたことは、まことにめでたいことである。この島は、去る応保元年二月下旬に築き始められたが、同年八月二日、突然の大風と大波によってすべて押し流されてしまった。その後応保三年三月、阿波民部大夫成能を奉行として再び築かせた際、人柱を立てるべきではないかとの公卿詮議もあったが、それはかえって罪業であろうとして退けられ、石の表面に一切経を書いて築かせた。そのため、この島を「経の島」と名付けたのである。


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