梶原景季|平家物語巻第九『生食』現代語訳あらすじ

平家物語巻第九『生食(いけづき)』現代語訳あらすじ

平曲|生食(いけづき)

時間|10分52秒
物語|平家物語巻第九「生食(いけづき)」
インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
思ひ思ひの鞍置かせ色々の鞦懸け、或いは乗口に引かせ或いは諸口に引かせ、幾千万といふ数を知らず。引き通し引き通ししける中に景季が賜はつたる磨墨に勝る馬こそ無かりけれと嬉しう思ひて見るところに、ここに生食と思しき馬こそ出で来たれ。金覆輪の鞍置かせ小房の鞦懸け白轡はげ白沫噛ませて、舎人数多付いたりけれどもなほ引きもためず、躍らせてこそ出で来たれ。梶原うち寄つて「この御馬は誰が御馬候」「佐々木殿の御馬候」「佐々木は三郎殿か四郎殿か」「四郎殿の御馬候」とて引き通す。梶原「安からぬ事なり。同じやうに召し使はるる景季を、佐々木に思し召し替へられける事こそ遺恨の次第なれ。今度都へ上り木曽殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井と組んで死ぬるか然らずは西国へ向つて平家の侍と軍して死なんとこそ思ひしに、この御気色ではそれも詮なし。詮ずるところ唯今此処にて佐々木を待ち受け、引つ組んで差し違へよき侍二人死んで鎌倉殿に損取らせ奉らん」と呟いてこそ待ちかけたる。佐々木何心もなう乗替えに乗って歩ませて出で来たり。梶原押し並べてや組むべき向こう様にや当て落すべきと思ひけるが、まづ詞をぞ懸けける。「いかに佐々木殿は生食賜はらせ給ひて上らせ給ふな」と云ひければ佐々木、あつぱれこの仁も内々所望申しつると聞きしものをときつと思ひ、「さん候ふ今度この御大事に罷り上り候ふが、宇治も勢田も定めて橋をや引いたるらん。乗つて川を渡すべき馬は無し。生食を申さばやと存じつれども、御辺の申させ給ふだに御許されも無きに、まして高綱なんどが申さばとてよも給はらじ。後日にいかなる御勘当もあらばあれと存じつつ、明日立たんとての曉、舎人に心を合はせてさしも御秘蔵の生食を盗み澄まして上りさうはいかに梶原殿」と云ひければ、梶原この詞に腹が居て「妬いさらば景季も盗むべかりつるものを」とてどつと笑ふてぞ退きにける。

平家物語巻第九『生食(いけづき)』現代語訳あらすじ

平家物語巻第九『生食』現代語訳あらすじ

※平曲の譜面『生食』から書き起こした文章を現代語訳にしています

同じ十一日、木曽左馬頭義仲は後白河法皇の元へ向かい平家追討の院宣を受けて西国への出陣を報告する。これを聞いた鎌倉の前右兵衛佐頼朝は、範頼と義経を先鋒に立てて数万騎を派遣した。その軍勢がすでに美濃国や伊勢国に到着したとの報が届いたことに木曽義仲は驚き、宇治と勢田の橋を落とし軍兵を分けて派遣したが、勢力は十分ではなかった。

まず追手を迎えるために、勢田の橋には今井四郎兼平が八百余騎を率いて向かった。宇治橋には仁科、高梨、山田次郎が五百余騎で派遣された。いもあらいには伯父の信太三郎先生義教が三百余騎を率いて向かう。その間に、東国から攻め上がってくる追手の大将軍には源範頼、搦手の大将軍には源義経が任命され、宗徒の大名三十余人を合わせた総勢は六万余騎とのことであった。

その頃、鎌倉殿には生食(いけづき)と磨墨(するすみ)という名馬があった。梶原景季はたびたび生食を所望していたが、頼朝は「これは非常の事態が起きた時、私が甲冑をまとって乗るべき馬である。磨墨も優れた名馬だから、これを梶原に与えよう」として、磨墨を授けた。しかしその後、近江国の佐々木四郎高綱が別れの挨拶に参上した際、頼朝は「生食を望む者は他にも多くいる。そのことを知っておけ」として、生食を佐々木に授けた。

佐々木は生食を賜り、頼朝の前に深く頭を下げて、「この馬に乗り、宇治川を真っ先に渡ってみせます。もし私が死んだとお聞きになったのならば、他の者に先陣を奪われたと思ってください。しかし、私が生きているとお聞きになったのならば、宇治川の先陣は確かに佐々木が務めたとお考えください」と言い、その場を去った。これを聞いた参会していた大名や小名たちは、「なんと勇ましく堂々とした言葉だ」と囁き合った。

各々の軍勢は鎌倉を出発した。足柄を経て進む者、箱根を越える者、それぞれが思い思いの道を進みながら上洛していった。その途中、駿河国浮島原にて、梶原景季は高台に登り、しばらく馬たちを見渡していた。そこには、様々な鞍を置かれた馬たちが多数集まり、その数は数え切れないほどであった。馬たちは引き手に引かれながら行進していたが、景季が賜った磨墨に勝る馬は見当たらないと、彼は嬉しく思いながら見ていた。すると、そこに生食と思しき馬が現れた。

金覆輪の鞍を置かれ、小房の鞦を掛け、白轡をはめ、白沫を噛ませながら、その馬は多くの従者を引き連れていたが、それでもなお引きもためらわずに躍り出てきた。梶原はその馬に近寄り、「この御馬は誰のものか」と問うと、「佐々木殿の御馬でございます」との答えが返ってきた。さらに梶原が「それは三郎殿か、四郎殿か」と尋ねると、「四郎殿の御馬でございます」と言い、引き通して行った。

梶原の心中は穏やかではなかった。自分と同じく鎌倉殿に仕えている身でありながら、佐々木にこの名馬を与えられたことに強い遺恨を抱いた。梶原は内心、「今回都へ上り、木曽殿の配下にある四天王、今井、樋口、楯、根井と組んで討死するか、さもなければ西国へ向かって平家の侍と戦いながら死のうと決意していたが、この状況ではその意気も失せる。ここで佐々木を待ち受け、差し違えて二人の侍が死ねば、鎌倉殿にも損害を与えることになるだろう」とつぶやきながら、佐々木を待ち構えていた。

佐々木は何も疑うことなく乗り換え馬に乗り、ゆっくりと進んでいた。梶原は彼に並びかけ、組みついて落とすべきか、それとも言葉をかけてからにすべきかと思案したが、まずは言葉をかけることにした。「いかに、佐々木殿は生食をいただいて都へ上るのか」と尋ねると、佐々木は内心で「この者も内々で生食を所望していたと聞いていたか」と思いながらも、平静を保ち、「そうでございます。今回、この大事に参加するために上ることとなりましたが、宇治も勢田も、きっと橋が引かれていることでしょう。川を渡るためには馬が必要だと考え、生食を申し出ようと思いましたが、あなた様が所望されて許されなかったのに、ましてや高綱ごときが申し出たところで到底いただけるはずもありません。しかし、後日にどのような勘当を受けようとも、かまわないと覚悟し、明朝出発するという明け方に舎人たちと心を合わせて、あの御秘蔵の生食を盗み、こうして上っている次第です。どうです、梶原殿」と言った。

この言葉に梶原は腹がおさまり、「ああそうか、景季も生食を盗んでおくべきだった」と大きく笑い飛ばしてその場を退いた。


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