佐々木高綱|平家物語巻第九『宇治川』現代語訳あらすじ

平家物語巻第九『宇治川先陣』現代語訳あらすじ

平曲|宇治川(うじがわ)

時間|8分50秒
物語|平家物語巻第九「宇治川(うじがわ)」
インスタレーション|KAJIWARA25
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詞章
ここに平等院の艮橘の小島崎より武者二騎引き懸け引き懸け出で来たり、一騎は梶原源太景季一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども内々先に心をかけければ梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。佐々木「いかに梶原殿この川は西国一の大河ぞや、腹帯の延びて見えさうは締め給へ」と云ひければ、梶原さもあるらんとや思ひけん手綱を馬の揺髪に捨て、左右の鎧を踏み透かし腹帯を解いてぞ締めたりける。佐々木その間に其処をつと馳せ抜いて川へさぶとぞうち入れたる。梶原謀られぬとや思ひけんやがて続いてうち入れたり。梶原「いかに佐々木殿高名せうとて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん心得給へ」と云ひければ佐々木げにもとや思ひけん、太刀を抜いて馬の脚にかかりける大綱共をふつふつと打ち切り打ち切り、宇治川速しといへども生食といふ世一の馬には乗つたりけり一文字にさつと渡いて向かひの岸にぞ着きにける。梶原が乗つたりける磨墨は川中より篦撓形に押し流され遥かの下より打ち上げたり。

平家物語巻第九『宇治川先陣』現代語訳あらすじ

※平曲の譜面『宇治川』から書き起こした文章を現代語訳にしています

佐々木四郎が賜った馬は黒栗毛で、非常に力強く逞しい馬であった。周囲の馬や人を払いのけるほどの激しさを持っていたため、生食(いけづき)と名付けられた。高さ八寸の馬として知られていた。一方、梶原が賜った馬も非常に力強く逞しく、真っ黒であったため、磨墨(するすみ)と名付けられた。どちらも名馬として劣ることのない優れた馬であった。

その後、東国からの大軍勢が大手と搦手の二手に分かれて攻め上がってきた。大手の大将軍は蒲御曹司範頼が指揮を執り、これに伴う人々として、武田太郎、加賀見次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、楾谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、勢力は三万五千余騎に及んだ。彼らは近江国の野路篠原に陣を取った。

搦手の大将軍は九郎御曹司義経が指揮を執り、これに伴う人々として、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允、平山武者所を先として勢力は二万五千余騎に達し、彼らは伊賀国を経由して宇治橋の詰めに押し寄せた。

宇治も勢田も橋が引き落とされ川底には乱杭が打たれ、大綱が張られ逆茂木が流されていた。時期は二月の二十日過ぎで比良の高嶺や志賀の山に積もった雪が溶け、谷々の氷も解けて川の水量が増していた。白波が激しく立ち、川の流れは速く大きな滝のように逆巻く水が轟音を立てていた。夜が明ける頃には川霧が深く立ち込め、馬の毛や鎧の装飾もはっきりと見えないほどであった。

九郎御曹司義経は川の端に進み出て、水面を見渡し、兵たちの心中を見極めようとしたのだろうか、淀の一口へ向かうべきか、川の内側の道を回るべきか、水が引くのを待つべきかどうするべきか思案していた。そこへ、武蔵国の住人畠山庄司次郎重忠が進み出て言った。「この川の状況は鎌倉でもよく考慮されていました。普段から知り抜いている海や川でも急な変化には対応が難しいものです。この川は近江の湖の末端にあたるため、いくら待っても水が引くことはありません。橋を再び渡って修復することはできません。かつての治承の合戦で、足利又太郎忠綱が生年十七歳で渡ったと聞いていますが、彼も鬼神ではなかったはずです。」

畠山重忠が川を渡るために準備をしようと、丹の党を率いて五百余騎を従え轡を並べているところに、平等院の艮橘の小島崎から武者二騎が現れた。一騎は梶原源太景季、もう一騎は佐々木四郎高綱であった。人目には分からなかったが、内心では互いに競争心を抱いていたため、梶原は佐々木よりもわずかに前に進んでいた。これを見た佐々木が「いかに、梶原殿。この川は西国一の大河です。腹帯が緩んでいるように見えるので、しっかり締めた方が良いでしょう」と言った。すると梶原はその言葉を受けて、手綱を馬の鬣に放り投げ、左右の鎧を踏み透かし、腹帯を解いて締め直した。

その隙に佐々木は素早く前進し、川に飛び込んだ。梶原は騙されたと気づき、すぐに続いて川に入った。梶原が「いかに佐々木殿、名を上げようと焦ってはなりません。水の底には大綱があるはずです、気をつけてください」と警告した。佐々木も確かにと思い、太刀を抜いて馬の脚にかかった大綱を次々と切り払いながら進んだ。宇治川の流れは速かったが、佐々木は世に名高い名馬・生食に乗っていたため、見事に一直線に川を渡り、向こう岸に到達した。一方、梶原が乗っていた磨墨は、川中から斜めに押し流され、遥か下から岸に上がった。

その後、佐々木は鐙を踏ん張り、大声で「宇多天皇より九代の後裔、近江国の住人佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣だ。木曽殿の味方で我こそはと思う者は集まれ、見参せん」と叫びながら駆け進んだ。その後、畠山重忠も五百余騎を率いて川に突入し、川を渡った。しかし、向かいの岸から山田次郎が放った矢が、畠山の馬の額に深く突き刺さり、馬が弱ってしまったため、畠山は川中で弓を杖代わりにして馬から降りた。岩波が甲の錣に勢いよく押し寄せたが、畠山はこれをものともせず、水の底を潜るようにして無事に向かいの岸に到達した。

畠山重忠が川から上がろうとするところ、背後から誰かがぐっと引き止めた。「誰だ」と問うと、「重親です」と返事があった。「おお、大串か」と畠山が言うと、「そうです」と答えた。大串次郎重親は、畠山の烏帽子子であった。「あまりに水の流れが速く、馬が川中で押し流されてしまい、力尽きてどうにかここまでたどり着きました」と言うと、畠山は「いつもお前は重忠に助けられているな」と言いながら、大串を掴んで岸の上へ投げ上げた。大串は投げ上げられると立ち直り、太刀を抜いて額に当て、大声で「武蔵国の住人大串次郎重親、宇治川で徒歩立ちの先陣を切ったぞ」と名乗りを上げた。これを聞いた敵も味方も、一斉にどっと笑った。

その後、畠山重忠は乗替馬に乗り換え、声を上げながら駆け進んだ。すると、魚綾の直垂に緋威の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っている武者が一騎、真っ先に進んできた。畠山が「ここに駆けてくるのは何者だ、名乗れ」と叫ぶと、その武者は「木曽殿の家臣、長瀬判官代重綱」と名乗った。畠山は「ならば、今日の戦神に祝おう」と言い、相手に押し並べて一気に組み付き、引き落として自分の乗っている鞍の前輪に押し付け、少しも動かせないようにして首を捩じ切り、その首を本田次郎の鞍の取付に付けさせた。

これをきっかけに、宇治橋を守っていた兵たちはあちらこちらで返し合い、防御戦を展開したが、東国の大勢が次々と川を渡り攻めかかってきたため、力及ばず、木幡山や伏見を目指して退却していった。勢田では、稲毛三郎重成が判断し、田上の供御瀬を渡った。


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