源義経|平家物語巻第十一『坂櫓』現代語訳あらすじ

平曲|坂櫓(さかろ)
時間|13分49秒
物語|平家物語巻第十一「坂櫓(さかろ)」
インスタレーション|SAKARO25
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詞章
判官、舟共の修理して新しうなりたるに各一種一瓶して祝ひ給へとて、とかく営む体にもてなして舟に兵糧米積み物具入れ馬共立てさせ舟疾う疾う仕れと宣へば水主梶取共、これは順風にては候へども普通にては少し過ぎて候ふ、沖はさぞ吹いて候ふらんと申しければ、判官大きに怒つて沖に出で浮かうだる舟の風強ければとて留まるべきか、野山の末にて死に海川に溺れて死ぬるも皆これ前世の宿業なり。向かひ風に渡らんと云はばこそ義経が僻事ならめ。順風なるが少し強ければとてこれほどの御大事に舟仕らじとはいかでか申すぞ、舟疾う疾う仕れ仕らずばしやつ原一々に射殺せ者共と下知したまひける。承り候ふとて、奥州佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶なんどいふ一人当千の兵共片手矢矧げて、御諚であるぞ舟疾う疾う仕れ仕らずばしやつ原一々に射殺さんとて馳せ廻る間、水主梶取共ここにて射殺されんも同じ事風強くは沖にて馳せ死ねや者共とて二百余艘が中よりただ五艘出でてぞ走りける。五艘の舟と申すはまづ判官の舟、田代冠者の舟、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊とて舟奉行の乗つたる舟なり。残りの舟は梶原に恐るるか風に恐づるかして出でざりけり。判官、人の出でねばとて留まるべきか、ただの時は敵も恐れて用心してんず。かやうの大風大波に思ひも寄らぬ所へ寄せてこそ思ふ敵をば討たんずれとぞ宣ひける。残りの舟には篝など燃ひそ、義経が舟を本舟として艫舳の篝を守れや、火数多う見えば敵も恐れて用心してんずとて走るほどに、その間三日に渡る所をただ三時ばかりにぞ走りける。二月十六日の丑の刻に摂津国渡辺福島を出でて、明くる卯の刻には阿波の地へこそ吹き着けたれ。

平家物語巻第十一『坂櫓』現代語訳あらすじ
※平曲の譜面『坂櫓』から書き起こした文章を現代語訳にしています
元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経は院に参上し、大蔵卿泰経朝臣を通じて奏聞した。その内容は、平家がすでに神々にも見放され、天皇にも捨てられ、海上を漂う落人となっているにもかかわらず、三年間も攻め落とせず、多くの国々を塞がれていることが心安らかではないというものであった。今回、義経は平家を鬼界、高麗、天竺、震旦までも追い詰めて討たなければ、王城(都)に戻ることはないという旨を奏上した。それを聞いた法皇は大いに感銘を受け、「夜を日に継いで、速やかに勝敗を決するべし」と命じた。
判官は、この命令を慎んで承り、宿所に戻った後、東国の大名や小名たちに向けて、「今度、義経は鎌倉殿の代理として平家追討のために西国へ出向くこととなる。したがって、陸では馬の足が届く限り、海では櫓や櫂が立つ所まで、平家を追い詰めて攻め行くべきだ。不満や異議を抱く者は、速やかに鎌倉へ下るがいい」と述べた。
さて、平家が八島に渡ってから月日が過ぎるのは速く、正月が過ぎて二月となり、春の草が枯れ、秋の風が吹き、再び春の草が芽吹く頃になり、すでに三年が経過していた。東国から新たな軍勢が数万騎、都に集まり攻め下るという噂が伝わり、鎮西からは臼杵や戸次、松浦党が協力して攻め渡るという報せも届いた。それを聞くたびに、耳を驚かせ、心が消耗するばかりで、他に何もできなかった。
女院や北政所、二位殿以下の女房たちが集まり、「我が方はこれからどれほどの苦しいことを聞かされ、どれほどの辛い目に遭うのだろうか」と嘆き合っていた。その中で特に新中納言知盛卿は、「東国や北国の者たちは平家の恩を受けながら、恩を忘れて頼朝や義仲に従った。西国も同じように裏切るだろうと覚悟していたが、都に留まってどうにかなると思っていた。しかし、自分ひとりの問題ではなく、このような辛い目を見ることになるとは、本当に悔しい」と語った。その言葉には道理があり、哀れに感じられた。
二月三日、九郎大夫判官義経は都を出発し、摂津国の渡辺福島で船を揃え、八島へ攻め寄せようとしていた。同日、兄である三河守範頼も都を出発し、摂津国の神崎で兵船を揃え、山陽道へ進軍しようとしていた。また十日には、伊勢石清水へ官幣使が派遣され、主上と三種の神器を無事に都へ戻すため、神祇官の官人や社司たちに祈願を行うよう命じられた。その後、渡辺と福島で準備された船団は、出発のために纜(ともづな)を解こうとした。しかし、北風が烈しく吹き荒れ、船団は損傷して出航できず、その日は修理のために留まることとなった。
二月十六日、渡辺では東国の大名や小名たちが集まり、船軍の準備が整っていないことについて評議していた。梶原が進み出て、「今回の軍では船に逆櫓を立てるべきです」と提案すると、義経は「逆櫓とは何か」と尋ねた。梶原は「馬は前に進んだり後ろに引いたりできますが、船はそれが難しい。艫と舳に櫓を立て、脇楫を入れて、どの方向にも容易に回れるようにするのです」と説明した。これに対して義経は、「初めから退くことを考えるのは不吉だ。軍というものは、進んで引かないのが理想だ。まして、逃げるための準備を整えることが良いはずがない。殿原たちの船には逆櫓でも返様櫓でも、百丁千丁立てるがよい、義経はただ元の櫓で行く」と言った。
梶原はさらに言葉を重ねて「良い大将軍とは、進むべき時には進み、退くべき時には退いて、身を全うしつつ敵を滅ぼす者のことです。偏った考えを持つ者は猪武者と呼ばれ、決して良い将とはなりません」と進言したが、義経は「猪や鹿のことは知らない。ただ平家を攻めて勝つことこそ気持ちが良いのだ」と返した。このやり取りに東国の大名や小名たちは梶原に恐れを抱き、大声で笑うことはなかったが、目を引き、鼻を引きながら笑いをこらえた。その日、義経と梶原の間で一触即発の雰囲気が漂ったが、結局、軍には至らなかった。
義経は、修理が終わった舟が新しくなったのを見て、各々祝いを行うように命じた。そして、舟に兵糧米を積み、武具を入れ、馬を立てさせ、「舟を早く準備せよ」と命じた。すると、水主や梶取たちが、「これは順風ではございますが、少し強すぎるかもしれません。沖ではさらに風が吹いていることでしょう」と進言した。これを聞いた義経は激怒し、「沖に出て風が強いからといって舟を留めるべきか。野山で死のうが、海川で溺れて死のうが、それはすべて前世の業によるもの。向かい風で渡るなら話は別だが、順風で少し強いからといって、このような大事な時に舟を出さぬとは何事か。舟を早く仕度せよ。もし仕度を怠る者がいれば、一人一人射殺してしまえ」と厳命した。
「承知しました」と応じた奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶といった、一騎当千の強者たちが、片手に矢を引き、「義経公の命令だ。早く舟を出せ。出さなければ一人一人射殺すぞ」と言いながら、舟の間を駆け巡った。水主や梶取たちは「ここで射殺されるのも、沖で風に吹かれて死ぬのも同じことだ。それなら沖に出て死のう」と言い、二百余艘の中から、わずか五艘が出発した。その五艘とは、まず判官義経の舟、田代冠者の舟、後藤兵衛親子の舟、金子兄弟の舟、そして舟奉行である淀の江内忠俊の舟であった。残りの舟は、梶原景時に対する恐れか、風に対する恐れか、いずれかの理由で出発しなかった。
判官は「他の舟が出ないからといって、ここで留まるべきではない。ただの時であれば、敵もこちらを警戒し、準備をするだろう。だが、このような大風と大波の中、思いもよらぬ場所へ攻め寄せてこそ、目指す敵を討てるのだ」と宣言した。そして、残っている舟には篝火を焚かせ、「義経の舟を本舟とし、艫舳に篝火を守れ。火が多く見えれば、敵も恐れて警戒するだろう」と命じて走らせた。その結果、三日かかる距離をわずか三時間ほどで駆け抜けた。そして、二月十六日の丑の刻に摂津国の渡辺福島を出発し、明くる卯の刻には阿波の地に吹き着けたのである。
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