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ここは、平曲(平家琵琶の伴奏で平家物語を語るもの)の小さな演奏会や講座を行っている盛典のサイトです。このページでは平家物語巻第九『二度魁(にどのかけ)』の現代語訳あらすじを紹介しています。拙いものですがよろしければご覧ください。
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平家物語巻第九『二度魁』簡単なあらすじ
成田五郎と土肥次郎実平が七千余騎を率いて生田森を攻める中、武蔵国の河原太郎と河原次郎の兄弟は、名誉を求めて自ら戦う決意を固め、二人で城内に突入した。河原兄弟は弓の名手として奮戦したが、備中国の真名辺兄弟に討たれてしまう。河原兄弟の最期を知った梶原平三景時は、党の不覚を嘆きつつも、これを攻撃の好機と捉え、鬨の声を上げて五万余騎の軍勢を一斉に攻めかからせた。次男の平次景高が先陣を駆けてしまったため、景時は後を追う。縦横無尽に戦い戻ってくると長男の源太景季が見当たらないことに気づく。景時は名乗りを上げて再び敵陣に駆け込み、自らの身を顧みず源太を探し回りながら戦った。やがて、敵五人に囲まれながらも奮戦する源太を見つけた景時は、急いで駆けつけ共に敵を討ち取り戦場を後にする。
平家物語巻第九『二度魁』現代語訳全文
※平曲の譜面『二度魁』から書き起こした文章を現代語訳にしています
さて、成田五郎が現れ、土肥次郎実平も七千余騎を率いて、さまざまな旗を掲げながら叫び声を上げて攻めかかった。源氏の大軍五万余騎が生田森の正面を固めていた。その中に、武蔵国の住人である河原太郎と河原次郎という兄弟がいた。河原太郎は弟の次郎を呼び寄せ、「大名は自ら戦うことはしないが、家臣の武功で名誉を得る。我々は自ら戦わなければ本望を遂げられない。敵を前にして矢を射たずに待っているのは不安だ。俺は城内に紛れ込み、一矢報いようと思う。お前は残って後の証人となれ」と言った。次郎は涙を流しながら、「なんて悔しいことを。兄弟が二人いて、兄が討たれ、弟が残るのは悔しい。別々に討たれるより、一緒に討ち死にしよう」と答えた。そして、従者たちを呼び寄せ妻子のもとへ最後の様子を伝え、馬には乗らず、草履を履いて弓を杖にして生田森の逆茂木を越えて城内へ入っていった。
星明かりに鎧の装飾も定かでない中、河原太郎は大音声で「武蔵国の住人、河原太郎私市の高直、同じく次郎盛直、生田森の先陣だ」と名乗りを上げた。これを聞いた城内の者たちは、東国の武士ほど恐ろしい者はいないと感じ、兄弟二人だけでこの大勢の中に駆け込んで何をするつもりだろうかと、ただあしらってやれと彼らを討とうとする者はいなかった。
河原兄弟は弓の名手であったので、次々に矢を放ち続けた。城内の者たちもその奮戦を見て、あしらうのは無理だ、この者たちを討てと声を上げるところに、西国で名高い弓の名手、備中国の住人真名辺四郎と五郎の兄弟が現れた。兄の四郎は一谷に、弟の五郎は生田森にいたが、河原兄弟の奮戦を見て、じっくりと狙いを定めて矢を放った。その矢は河原太郎の鎧の胸板を射抜き、太郎は弓杖にすがって倒れかける。弟の次郎は兄を助けようと駆け寄り、肩に担いで生田森の逆茂木を越えようとしたが、真名辺五郎が放った二の矢が次郎の鎧の草摺を射抜き、兄弟二人はその場で倒れた。真名辺の従者たちが河原兄弟の首を取り、大将軍である新中納言知盛卿のもとに持っていくと、「見事な兵たちだ。これこそが一人当千人の兵と言うべきだ。彼らの命を助けてやりたかった」と言った。
その後、河原の従者が駆け「河原殿兄弟は城内に真っ先に駆け込み、討たれました」と叫び声を上げた。それを聞いた梶原平三景時は、「これは私の党の不覚で河原兄弟を討たせてしまった。しかし好機だ、攻めよう」と鬨の声を上げた。それに応じて、五万余騎の兵たちも一斉に鬨の声を上げた。
景時は、まず足軽たちを送り出して生田の森の逆茂木を取り除かせ、その後、自ら五百余騎を率いて叫び声を上げながら駆け行った。次男の平次景高は、あまりにも先を急いで進もうとしたため、景時は「後陣が追いつかないまま先駆けする者には、褒美はないとの大将軍の仰せだ」と伝えた。平次景高は一旦控えたが、「武士が弓を引いたならば、それを戻すことなどあろうか」と伝え、再び駆けて行った。
これを見た景時は「平次を討たせるな、景高を討たせるな、続け」と、父の景時、兄の源太、そして三郎も共に続いた。梶原の軍勢が五百余騎で大勢の敵陣に突っ込み、縦横無尽に駆け回って敵を打ち破り、引き返してくると、源太の姿が見えなかった。
景時が郎等たちに「源太はどうした」と尋ねると、「深入りしすぎて討たれたのか、姿が見えません」と答えた。これを聞いた梶原は涙を流し、「軍の先を駆けるのも、全ては子のためだ。源太が討たれたならば、景時が生きて何の意味があろうか。返せ」と言い、再び戦場へ取って返した。
その後、梶原は鐙を踏ん張って立ち上がり、大音声を上げて「昔、八幡殿が後三年の戦で出羽国千福金沢城を攻めたとき、生年十六歳と名乗って真っ先に駆け、敵の弓手の矢が鉢付の板に射付けられながらも、その矢を抜かずに敵を射返し、その敵の首を取って名を後世に残した、鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時一人当千の兵だ。城の内に我と思う者はかかってこい、相手をしてやる」と叫びながら駆け進んだ。
これを聞いた城内の者たちは「今名乗ったのは東国に名高い兵だ。逃すな、討ち取れ」と進み寄り梶原を囲んだ。梶原は自分の身を顧みず、息子の源太がどこにいるのか探し回りながら戦っていると、案の定、源太は馬を射られて徒歩立ちとなり、必死に戦っていた。高い岸を背にし、左右に従者を立たせ、敵五人に囲まれながらも、脇目もふらず命を惜しまず、最後の戦いを繰り広げていた。
梶原はこれを見て、源太がまだ討たれていないことに喜び、急いで馬から飛び降りた。そして、「源太、景時はここに居るぞ。たとえ共に死んでも、敵に背を見せるな」と声をかけ、親子で力を合わせて五人の敵を三人討ち取り、残る二人に重傷を負わせた。そして、「弓矢を取る者は、攻めるも退くも時機による。さあ源太、行こう」とその場を脱した。梶原が二度駆けとはこのことである。
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