平家物語巻第十一『能登殿最期』現代語訳あらすじ

平家物語巻第十一『能登殿最期』現代語訳あらすじ|最期の海、壇ノ浦。

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ここは、平曲(平家琵琶の伴奏で平家物語を語るもの)の小さな演奏会や講座を行っている盛典のサイトです。このページでは平家物語巻第十一『能登殿最期』の現代語訳あらすじを紹介しています。拙いものですがよろしければご覧ください。併せて平曲の小さな演奏会「最期の海、壇ノ浦。」を後半でご紹介します。

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平家物語巻第十一『能登殿最期』簡単なあらすじ
女院は自らの運命を悟り、御硯と御焼石を懐に入れて海へ身を投じた。これを見た渡辺の源五右馬允眤が女院を引き上げ御所の船に移した。大納言典侍局もまた内侍所の御唐櫃を抱えて海へ飛び込もうとしたが、袴の裾を矢で射止められ、武者たちに取り押さえられた。平大納言時忠卿は、「内侍所を凡夫が見るべきではない」と兵たちを諌め、その後、内侍所を元に納めた。

門脇平中納言教盛と修理大夫経盛の兄弟は、互いに手を取り合い、鎧の上に碇を背負って海に沈み、小松新三位中将資盛、少将有盛、従弟の左馬頭行盛も共に手を取り合って海へ入った。しかし、大臣殿と息子は同じようにせず船上に居たため平家の侍たちによって海へ突き落とされた。伊勢三郎義盛が大臣殿と息子を引き上げ、その様子を見た乳母子の飛騨三郎左衛門景経が奮戦するも、討ち取られてしまう。

能登殿は豪勇を見せつけて戦うも、やがて矢が尽きると大太刀と大長刀を手に敵を薙ぎ払った。新中納言知盛卿の制止も効かず、能登殿は判官と思しき者に飛びかかるが、判官は間一髪撤退した。もはやこれまでと悟った能登殿は、武器を捨て、最後の一戦を呼びかける。安芸太郎実光とその弟次郎、および郎等が能登殿に挑むが、能登殿は彼らを圧倒し、彼らを抱え込んで共に海へと沈んでいった。

平家物語巻第十一『能登殿最期』現代語訳あらすじ

平家物語巻第十一『能登殿最期』現代語訳全文
※平曲の譜面『能登殿最期』から書き起こした文章を現代語訳にしています

その後、女院はこの状況を目の当たりにし、もはやこれまでと思ったのか、御硯と御焼石を左右の懐に入れて海へ身を投じた。渡辺源五右馬允眤が小船をすぐに漕ぎ寄せ、御髪を熊手に引っ掛けて引き上げたが、女房たちが「それは女院でいらっしゃる、過ちを犯してはなりません。」と言ったので、急いで御所の御舟に移した。

大納言典侍局は、内侍所の御唐櫃を脇に挟み、海へ身を投げようとしたが、袴の裾を船端に矢で射付けられ、倒れ込んだところを武者たちが取り押さえた。そして、内侍所の御唐櫃の鎖を捻じ切り、御蓋を開けようとしたところ、忽然と目眩がし、鼻血が垂れ出た。平大納言時忠卿は生け捕りにされていたが、「それは内侍所である。凡夫が見るべきものではない。」と言ったので、兵たちは皆、舌を巻いて恐れおののいた。その後、時忠卿は判官と申し合わせて、内侍所を元の状態に納めた。

その後、門脇平中納言教盛と修理大夫経盛の兄弟は、互いに手を取り合い、鎧の上に碇を背負って海に沈んだ。小松新三位中将資盛、少将有盛、従弟の左馬頭行盛もまた、手を取り合って一緒に海へ入った。人々がこのようにして身を投げた中で、大臣殿親子は同じことをせず、船端に立ち、四方をきっと見回したが、特に心に思い詰めた様子もなかった。すると、平家の侍たちは、彼らの傍を走り通り、まず右衛門督を海へ突き落とし、大臣殿も同じく海に入れた。

人々は、鎧の上に重いものを背負ったり抱えたりして入ったために沈んだが、この親子はそのようにはせず、むしろ水練に長けていたため、大臣殿は「右衛門督が沈むなら私も沈もう」、右衛門督は「父が助かるなら私も助かろう」と、目と目をしっかりと見交わしながら、あちらこちらへと泳ぎ続けた。そこへ伊勢三郎義盛が小船を急いで漕ぎ寄せ、まず右衛門督を熊手で引き上げ、沈まない大臣殿も一緒に引き上げた。

乳母子である飛騨三郎左衛門景経は、この様子を見て「我が主君を捕らえるのは何者だ」と義盛の船に押し並べて乗り移り、太刀を抜いて討ちかかった。義盛の子供が、主を討たせまいと間に入り、三郎左衛門に斬りかかった。しかし、三郎左衛門が振るった太刀によって、義盛の子供は兜の真向を打ち割られ、次の一刀で首を打ち落とされた。義盛も危険な状態に見えたが、隣の船から堀弥太郎親経が十二束三伏の矢を引き絞り、ひょうと放つと、その矢が三郎左衛門の鎧の内側に当たった。怯んだ隙に、義盛の船に乗り移って三郎左衛門を組み伏せると、堀の郎党たちが続いて船に乗り移り、三郎左衛門の腰の刀を抜き、鎧の草摺を引き上げ、柄も拳も通れ通れと三度刺して首を取った。大臣殿は目の前で、乳母子がこのようになるのを見て、何を思ったのか。

おおよそ、能登殿の矢先に立ち向かう者はいなかった。能登殿のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒を締め、金で作られた大太刀を帯び、二十四本の切斑の矢を背負い、重籐の弓を持って、矢を次々と放ち、容赦なく敵を射抜いた。多くの者が手傷を負い、射殺された。やがて矢が尽きると、能登殿は大太刀と大長刀を左右の手に持ち、船の艫から舳まで激しく振り回し、敵を薙ぎ払った。

新中納言知盛卿は能登殿のもとへ使者を送り、「能登殿、罪作りだ。それはよい武者か。」と伝えた。能登殿は「ならば大将と組もう」と言って、刀の茎を短く持ち、船の艫から舳まで激しく敵を薙ぎ払って進んだ。しかし、大将が誰なのかわからず、装備の良い武者を見ると、判官ではないかと思い、飛びかかった。どうしたことか、能登殿は判官の船に乗り当たり、これはと目をかけて飛びかかった。判官は敵わないと思ったのか、長刀を左脇に挟み、味方の船が二丈ほど退いているところに、ゆらりと飛び乗った。能登殿はその素早い動きに劣ったのか、続いて飛び乗ることができなかった。

能登殿は、もはやこれまでと思われたのか、大太刀や大長刀を海へ投げ捨て、さらに甲も脱ぎ捨てた。そして、鎧の袖や矢を入れる箙もかなぐり捨て、胴だけを着けた姿で、大童のように大手を広げて立った。その姿は周囲の者を寄せつけないほどだった。能登殿は大音声を上げて、「我こそはと思う者たちは、寄って教経を組み伏せ、生け捕りにせよ。鎌倉へ下り、兵衛佐に会って一言申し上げたいと思う。寄れ、寄れ。」と叫んだが、誰一人として寄ってくる者はいなかった。

ここに、土佐国の住人で安芸郷を治めていた安芸大領實康の子、安芸太郎実光という者がいた。三十人力の屈強な武士で、彼に劣らない郎等が一人付き従っていた。また、弟の次郎も並外れた兵であった。彼ら三人は能登殿を見て、「たとえ心が猛くても、どれほどのことができるだろうか。たとえ十丈もの大きさの鬼であっても、我々三人が組みついたら、どうして従わせることができないだろう。さあ、組もう。」と言い、小船に乗り込んで能登殿の船に押し並べて乗り移り、太刀を構えて一斉に討ちかかった。

能登殿は、まず真っ先に進み出た安芸太郎の郎等を、片裾を掴んで海へ勢いよく蹴り落とした。続いて襲いかかってきた安芸太郎を左脇に挟み込み、弟の次郎を右脇に抱え込んで、力強く締め上げると「さあ、お前たち、死出の山への供をしろ。」と言い、二十六歳の若さで海へと身を投じたのであった。



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ここまでご覧いただきありがとうございました。
いつかどこかでお会いできますように。

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