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ここは、平曲(平家琵琶の伴奏で平家物語を語るもの)の小さな演奏会や講座を行っている盛典のサイトです。このページでは平家物語巻第九『木曽最期(きそさいご)』の現代語訳あらすじを紹介しています。拙いものですがよろしければご覧ください。※このページは2024年11月17日に加筆修正いたしました
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平家物語巻第九『木曽最期』簡単なあらすじ
木曽義仲は敗走を続ける中、今井四郎兼平と合流し、残った兵を集めたものの、その数はわずか三百余騎にまで減っていた。彼らは甲斐一条次郎率いる六千余騎の大軍と対峙し、必死に奮戦したが、次第に兵力を失い、最終的には義仲の手勢は五騎にまで減少した。五騎の中に残った巴に義仲は落ち延びることを命じる。巴はこれを受けて敵の武将御田八郎師重を討ち取った後、東国へ落ち延びた。その後、義仲と兼平は主従二騎となる。兼平は自害のため義仲を粟津の松原へ向かわせたが、そこで義仲は三浦の石田次郎為久に討ち取られてしまう。主君の死を知った兼平は戦いを止めて太刀を咥え、馬から飛び降りて自ら命を絶ったのだった。
平家物語巻第九『木曽最期』現代語訳あらすじ
※平曲の譜面『木曽最期』から書き起こした文章を現代語訳にしています
木曽義仲が信濃を出発した際、巴と山吹という二人の女を伴っていた。山吹は体調を崩したため都に留まった。中でも巴は、色白で髪が長く、容姿端麗であるだけでなく、並外れた武勇を誇っていた。荒馬を乗りこなす技量や険しい道を駆け下りる能力に秀で、馬上での立ち回りや弓矢、打物の扱いでは鬼や神にすら引けを取らない、一騎当千の猛者であった。軍となれば、特別な鎧を着せ、強弓や大太刀を持たせ、一方の大将として立てるほどであった。その勇名は群を抜き、肩を並べる者は誰一人いなかった。今回の軍でも、多くの武士が命を落とし、散り散りになった中、巴は七騎の中にあってなお討ち取られることはなかった。
木曽義仲は長坂を経て丹波路へ向かうとも、また龍花越を越えて北国へ向かうとも噂されていた。しかし、今井の行方が定かでないことを案じて引き返し、勢田の方へと落ち延びていった。今井四郎兼平は八百余騎を率いて勢田を守っていたが、激しい戦いの末に五十騎ばかりに討ち減らされ、やむなく旗を巻き、少人数で主君の行方を探しながら都の方へ向かった。そして、大津の打出浜で木曽義仲と行き会った。
中一町ばかりの距離から互いに姿を確認すると、主従は駒を早めて寄り合った。木曽殿は今井の手を取って「義仲は六条河原で討ち死にする覚悟だったが、お前の行方がわからず、多くの敵に背を見せてここまで逃れてきたのだ。どうだ」今井四郎は「御諚、誠に恐れ多いことでございます。兼平も勢田にて討ち死にするつもりでございましたが、御行方が定かでないことを案じ、多くの敵に背を見せてここまで逃れ参った次第です」と答えた。木曽殿はこれを聞き、「そうか、それならば縁はまだ尽きていなかったということだ。義仲の兵たちは山林に散り散りになっているが、この辺にも控えているだろう。お前の旗を掲げよ」と命じた。すると、巻いて持っていた今井の旗を高く差し上げた。
これを見付けて京から落ち延びてきた勢か、勢田から合流してきた者たちか定かではないが、ほどなくして三百余騎ばかりが馳せ集まった。木曽殿はとても喜び、「この勢があれば、最後の軍を一軍打ちかけることができるだろう。あそこに集まっているのは誰の軍か」と尋ねた。「甲斐の一条次郎殿の軍勢と聞いております」「その勢いはいかほどのものか」「六千余騎と聞こえております」木曽殿は、「同じ死ぬのならば、あの大勢の中へ駆け入って、立派な敵と戦い、見事に討ち死にしようではないか」と言い、真っ先に進んでいった。
木曽殿のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、五枚甲の緒を締め、厳物作りの太刀を腰に帯びていた。背には、その日の戦で使った石打の矢のわずかに残ったものを高々と背負い、滋籐の弓を持っていた。そして、名高い木曽の鬼葦毛と呼ばれる馬に金覆輪の鞍を置いて乗り、鐙を踏ん張って立ち上がり、大音声を上げた。「日頃の噂では聞いていたことだろうが、今こそ見るがいい。木曽の冠者、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍、源義仲だ。甲斐一条次郎とやら、義仲を討って兵衛佐に見せてみろ」そう叫ぶと、勢いよく馬を駆け進めた。
一条次郎はこれを聞いて「今名乗るのは敵の大将軍だ。逃がすな、取り逃がすな、若党ども、討ち取れ」と大勢で義仲を取り囲み、討ち取ろうとした。木曽勢三百余騎は、六千余騎の敵陣の中へ果敢に突入し、縦横無尽に蜘蛛手十文字に駆け破っていった。しかし、後方へ抜け出した時には、手勢は五十騎ばかりに減っていた。さらに進むと、土肥次郎実平が二千余騎を率いて立ち塞がったが、そこも駆け破り進んでいく。その間、あちらでは四五百騎、こちらでは二三百騎、さらに百四五十騎、百騎ほどの敵が次々に現れ、激しい戦闘を繰り広げながら駆け破っていった。やがて義仲の手勢は、主従わずか五騎となってしまった。その五騎の中までも巴は討たれていなかった。
木曽殿は巴を呼び寄せ、「お前は女だ。これから早くどこへでも落ち延びろ。義仲はここで討死するつもりだ。もし人の手にかからずとも自害するだろう。だが、義仲の最期に女を伴っていたなどと言われるのは、あまりにも口惜しい。だから、ここから立ち去れ」と厳しく言い聞かせた。
それでも巴は立ち去ろうとはしなかったが、あまりに強く命じるので「ああ、見事な敵が現れないものか。最後の軍、一軍を君にお見せしたいのに」と思って控えて待つところに、武蔵国の住人、御田八郎師重が三十騎ほどの兵を率いて現れた。巴はその敵勢の中に突っ込んで進み、真っ先に御田八郎に押し並び、組みついて馬から引きずり落とした。そして、自分が乗っていた馬の鞍の前輪に御田を押し付け、身動きさせないまま、その首をひねり切って捨て去った。その後、巴は急いで馬から飛び降り、武具を脱ぎ捨て、東国の方向へと落ち延びていった。手塚太郎は討死し、手塚別当は逃げ延びた。
木曽殿は今井四郎兼平と主従二騎だけになり、「普段は何とも思わないこの鎧が、今日は重く感じるものだ」と言った。今井四郎は「御身が疲れたわけでもなく、御馬が弱ったわけでもありません。それなのに急に鎧が重く感じられるのは、おそらく味方の勢が続いておらず、臆病心が生じたためでございましょう。しかし、兼平一人を他の武者千騎分と思ってくだされば、何も恐れることはございません。ここにまだ七、八本の矢が残っております。それを使ってまず一方を防ぎ申し上げましょう。あちらに見えるのは粟津の松原と申す場所でございます。君はあの松の中にお入りになり、静かに御自害されませ」と言いながら進んでいくと、新手の武者五十騎ほどが追いかけてきた。
「兼平がこの敵をしばらく防ぎ申し上げます。君はあの松原にお入りになり、静かに御自害されませ」と言うと、木曽殿はこう答えた。「義仲は六条河原でいかにもなるべきだったのだが、汝と一所で最後を遂げようと思ってこそ、多くの敵に背を見せてここまで逃れてきたのだ。所々で討たれるより、一所で討ち死にをしよう」と言い、馬の鼻を並べて駆け出そうとされた。それを見た今井四郎は急いで馬から飛び降り、主君の馬の水附にしがみつき、涙をはらはらと流しながら
「弓矢を取る身として、日頃どれほどの高名を重ねていようとも、最後に不覚を取れば長く名に傷がつくものでございます。御身もすでにお疲れになり、また御馬も弱っておいでです。御方に続く勢もなく、大勢に押し隔てられて、言うに値しないような敵の郎等に組み伏せられ、御首を取られてしまえば、この日頃、日本国に鬼神と聞こえられていた木曽殿が、誰それの郎等に討ち取られたなどと申されるのは、実に口惜しいことです。ただあの松の中へお入りになり、静かに御自害されませ」と言うと、それを聞いた木曽殿はそれならばと、ただ一騎で粟津の松原へ駆け入られた。
今井四郎は取って返し、五十騎ほどの敵勢の中へ駆け入り、鐙を踏ん張って立ち上がり、大音声を上げた。「遠くにいる者は音に聞け、近くにいる者は目に見よ。木曽殿の乳母子、今井四郎兼平と申す者、年三十三。そんな者がいることは鎌倉殿までもご存じのことであろう。兼平を討ち取り、兵衛佐殿の御見参に入れよ」と、射残していた八筋の矢を次々に差し詰め引き詰め、激しく射かけた。生死を省みず、矢庭に敵八騎を射落とし、その後太刀を抜いて斬り回ると、立ち向かう者は一人もいなかった。敵は「ただ射取れ、射取れ」と叫びながら矢を放ち続けたが、兼平の鎧が堅固であったため矢は裏をかかず、鎧の隙間を狙うこともできなかったため、兼平は傷を負うこともなかった。
木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けていった。頃は正月二十一日、日が暮れかかった頃で、薄氷が張っていた。そこに深い田があるとも知らず、馬を勢いよくざっと駆け入れると、馬の頭さえ見えなくなってしまった。煽り立てても、何度打っても動かなかった。こうした中でも今井四郎の行方が気がかりで振り返った内甲を、相模国の住人であり屈強な弓の名手である三浦の石田次郎為久が追いかけてきて、矢を引き絞り、ひゅうと放った。木曽殿は内甲を射抜かれて甲の真甲を馬の頭に押し当てるように俯いていたところを、石田の郎等二人が駆け寄り、ついにそこで木曽殿の首を討ち取った。
やがて首を太刀の先に貫き、高く差し上げ大音声を上げて「この日頃、日本国に鬼神とまで名高かった木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取ったぞ」と名乗った。その声を聞いた今井四郎は戦いを続けていたが「今となっては、誰を守って軍をするべきか。これを見よ、東国の武士たち。日本一の剛の者が自害する手本だ」と、太刀の先を口に含んで馬から逆さまに飛び降り、自らを貫いて果てた。こうして粟津の戦いは破れたのであった。
平家琵琶で語る平曲『木曽最期』の流れ
平家琵琶の伴奏で平家物語を語る平曲(へいきょく)で演奏される『木曽最期』は、信濃を立つ木曽義仲が連れている巴の描写からはじまります。大津の打出浜で今井四郎兼平と合流した義仲は兼平に、「汝が行方の覚束なさに多くの敵にうしろを見せて是までのがれたるはいかに」と言い、兼平も「兼平も勢田にて討死に仕るべう候ひしかども御行方の覚束なさに多くの敵に後を見せて是までのがれ参って候」と応えます。
その後三百騎程馳せ集まった勢とともに、甲斐一条次郎六千余騎の軍に駆け入ります。ここでは義仲の装束や名乗りの大音聲、軍の様子が力強く語られます。その後わずか五騎になってしまった中に残る巴に、義仲は離脱を促し、巴は恩田八郎師重を相手に最後の軍を見せ東国へ去っていきました。ここで共に残る手塚太郎が討ち死にし、手塚の別当が落ちていった様子が静かに語られます。
その後、義仲と兼平のふたりを様子を表す曲節に合わせて義仲の言葉が語られます。「日頃は何とも思えぬ鎧が今日は重うなったるぞや」。兼平は義仲を励ましながら、射残している矢があること、その矢で自分が時間を稼ぐ間、義仲に自害をするよう促します。義仲は、「所々で討たれんより一所でこそ討死をもせめ」と馬を走らせようとします。ここで兼平は義仲の馬の水付に取り付いて涙を流しながら言います。「弓矢取は年頃日頃いかなる高名候へども、最期に不覚しぬれば永き瑕にて候なり。御身もつかれさせたまひ候ひぬ、御馬も弱って候。」
このまま誰とも分からない郎等に首を取られては悔しくてならないと、義仲を粟津の松原へ向かわせた兼平は只一騎、追いかけてくる五十騎ばかりの勢の中へ駆け行ります。ここで兼平の名乗りの大音聲、奮戦の様子、兼平の鎧に矢一つあたらない様子が声高らかに語られます。
場面は移って義仲が松原に駆けている途中、薄氷の張った深田に足を取られてしまい、身動きが出来なくなる様子が語られます。兼平の行方がどうなったかと振り向いたところへ、三浦の石田次郎為久が放った矢が義仲の内兜を射抜きました。義仲は石田の郎等二人に首を取られてしまいます。
やがて義仲の首を太刀の先に貫き、名乗りを上げる三浦の石田次郎為久を兼平は見ます。軍を語る力強い語りは悲しみを帯び「今は誰を庇って軍をすべきか、是見たまえ東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本よ。」そう言って太刀の先を口に含み、躊躇なく馬から飛び降りる様子が語られた後、さてこそ粟津の軍は破れにけれという言葉が続いて物語は幕を下ろします。
平家琵琶で聞く『木曽最期』
私たちは2024年から平曲の小さな演奏会を行っています。平曲『木曽最期』をお聞きいただく演奏会「木曽義仲は振り返る」は終了いたしました。2025年に再演を予定しています。
※音量にご注意ください
木曽義仲は振り返る|冒頭
音声のみ5分33秒(木曽最期3分15秒~)
琵琶が好き・興味がある方へ
平家物語をテレビで見た、アニメで琵琶が登場した、琵琶の音色が気になる方は、番組のエンドクレジットに掲載されている奏者の名前で検索することをおすすめします。また、平家物語を演奏している琵琶は平家琵琶ではなく、筑前琵琶や鶴田流琵琶であることが多いです(平家琵琶以外の琵琶で演奏される平家物語にも魅力が沢山あります)。日本唯一の琵琶楽総合実演家団体「日本琵琶楽協会」のサイトをご覧いただくと、様々な琵琶や演奏会の情報を得ることができます。
▶日本琵琶楽協会サイトはこちら(遷移します)
https://nihonbiwagakukyokai.jimdofree.com/
ここまでご覧いただきありがとうございました。
いつかどこかでお会いできますように。