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ここは、平曲(平家琵琶の伴奏で平家物語を語るもの)の小さな演奏会や講座を行っている盛典のサイトです。このページでは平家物語巻第十二『六代被斬(ろくだいきられ)』の現代語訳あらすじを紹介しています。拙いものですがよろしければご覧ください。
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平家物語巻第十二『六代被斬』簡単なあらすじ
六代御前は美しく成長した。鎌倉殿(源頼朝)はこのことを聞き、六代が父の恥を雪ぐ者であるかを文覚坊に尋ねるが、文覚坊は六代御前を「愚か者」として鎌倉殿を安心させる。しかし、鎌倉殿は依然として不安を抱き、六代が謀反を起こす可能性を懸念する。母の勧めで六代御前は出家し、修行の旅に出る。高野山で所縁のある聖に父のことを尋ね、熊野でも父の遺跡を訪れ供養を行う。その頃、後鳥羽院は遊興にふけり、政治を放任していたため、世の中は不安定になっていた。頼朝が亡くなった後、文覚は謀反を企てるが失敗し、隠岐国に流される。その後、六代御前は高雄で修行を続けていたが、鎌倉殿(源頼家)は彼を捕らえ、鎌倉へ送るよう命じる。最終的に、六代御前は田越川のほとりで斬られ、平家の子孫はここで絶えた。
平家物語巻第十二『六代被斬』現代語訳全文
※平曲の譜面『六代被斬』から書き起こした文章を現代語訳にしています
その後、六代御前は十四、五歳になり、その容姿は美しく、周囲を輝かせるほどであった。母上はその姿を見て、「もし世が平穏であったなら、今ごろは近衛司にもなれたであろうに」と言い、切なさを滲ませた。
このことを聞いた鎌倉殿(源頼朝)は、高雄にいる文覚坊に便りを送るたびに、「六代は、かつて聖が頼朝を見守ってくれたように、朝廷の敵を平らげ、父の恥を雪ぐ者であろうか」と尋ねた。これに対して文覚坊は、「六代御前はまったく底知れぬ愚か者でございますので、ご安心ください」と返答した。
それでも鎌倉殿は不安を抱き続け、「謀反を起こせば、すぐに味方となりそうな聖である。頼朝が生きている間は問題ないだろうが、その子孫がどうなるかはわからない」と懸念を示した。
このことを聞いた母上は、「どうか六代御前、早く出家を」と勧めた。六代御前は、十六歳になった文治五年の春、その美しい髪を肩のあたりで鋏み切り落とし、柿色の衣や袴、笈などを用意してすぐに修行の旅に出た。斎藤五と斎藤六も同様に姿を変え六代御前の供をした。
まず高野山に登り、父が親しくしていた聖を訪ね、出家の様子や父の最期の様子を詳しく尋ねた。その後も父の跡が懐かしく思われ、熊野へ参った。濱の宮という王子の御前から、父が渡ったという山成島を見渡し、渡ってみたいと思ったものの、波風が強くて叶わず、どうすることもできなかった。「父はどこに沈んでしまったのだろうか」と、沖から寄せる白波に問いかけたい気持ちであった。浜の真砂を見ても、これが父の御骨ではないかと懐かしく思い、涙で袖がしおれ、まるで塩を汲む海女の衣のように、乾く間もなく涙が溢れ続けた。渚で一夜を明かし、指の先で砂に仏の姿を描き、父のために作善の功徳を施し、そのすべての功徳を父の霊に回向して、都へと帰った。
その頃、主上は後鳥羽院であり、遊興にふけり、政治をすべて卿局に任せていたため、不満を抱く者が多かった。かつて呉王が剣術を好んだために天下に怪我を負う者が絶えなかったように、また楚王が細腰の女性を愛したために宮中で飢え死にする女性が多かったように、上に立つ者の好みに従うのが世の習いであったため、世の中が危うくなり、心ある人々は皆、嘆き悲しんでいた。
二宮と呼ばれる方は学問を怠ることなく、正しい道を貫いていた。しかし、文覚坊は恐ろしい聖であり、干渉すべきでないことにまで干渉した。何とかしてこの宮を位につけたいと願っていたが、頼朝が生きている間はその思いを遂げることができなかった。
その後、頼朝は建久十年正月十三日に五十三歳で亡くなった。文覚はすぐに謀反を起こしたが、その計画が漏れ伝わり、文覚坊の二条猪熊の宿所に多数の官人が送り込まれ、捕らえられて隠岐国へ流された。
文覚が都を出る際、「このように老い、今にも死ぬかもしれない身を、たとえ勅勘を受けたとしても、都の片隅にすら置かず、遥か遠くの隠岐国まで流す毬杖冠者め。いずれ私を流した国へ迎えに参ろう」と何度も跳びはねながら言った。この君(後鳥羽院)は、あまりにも毬杖の玉を愛しておられたため、文覚はこのように皮肉を言ったのである。その後、承久の乱で後鳥羽院が謀反を起こし、遥々と隠岐国へ流されることになったのは、不思議な巡り合わせであった。その隠岐国では、文覚の亡霊が荒れ狂い、後鳥羽院の前に現れてさまざまな話を語ったと伝えられている。
その後、六代御前は三位禅師として高雄の奥で修行に専念していたが、鎌倉殿(源頼家)は「去人の子であり、去者の弟子であるから、たとえ頭を剃ったとしても、その心まで剃り落とすことはできまい」と言って、安判官資兼に命じて六代御前を捕らえ、鎌倉へ送った。そして、駿河国の住人である岡辺権守泰綱に命じ、田越川のほとりでついに六代御前を斬ってしまった。十二歳から三十歳を超えるまで命が保たれたのは、偏に長谷の観音の御利生であったと伝えられている。三位禅師が斬られた後、平家の子孫は永遠に絶えてしまった。
▼六代御前の父、平維盛が入水する話はこちら
維盛入水
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▼前のお話『泊瀬六代』はこちら
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